第4章 親による現代の子殺し
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1974年から1983年の10年間に、カナダでは6559件の殺人事件が捜査され、5444件が解決された
367件が加害者は被害者の実の親
150人が1歳以下の乳幼児
このうち144件が解決
母親が加害者だったのものは88件
残念なことにカナダ統計局の動機の分類は非常に少ない
奇形障害の有無、父性の確認の問題の有無、出産間隔といった事柄は知ることができない
しかし、理論的に予測される特定の変数と、親による子殺しのリスクとがどのように関連しているかについて、詳細な分析を行える
子殺しと母親の年齢
母親による子殺しのリスクは年齢とともに減少するはず
女性が赤ん坊をどう評価するかということと、自分自身をどう評価するかということとの間に、心理学的な差し引き関係が生じる
女性が自分をどう評価するかは、彼女の繁殖ポテンシャルがどれほど残っているかの指標として進化しているはず
彼女の将来の繁殖可能性が減少するにつれて将来を重視しないようになり、現在の繁殖に関する意思決定に、将来が及ぼす影響も小さくなるだろう
この予測されたパターンは、カナダにおける子殺しでもだいたいにおいて同じ
赤ん坊が殺される可能性は10代の母親においてもっとも高く、20代、30代になるにつれて減少していく
年齢が上の母親で、子殺しのリスクが若干高くなるのは、38歳、41歳、41歳のたった3人の母親によるものなので、意味があるかはわからない
年齢の高い母親は、すでに多くの子を持っている場合もあるし、若い母親よりも奇形児を産む可能性も高いので、年齢の高い母親に生まれた子に対しては、新たに子殺しのリスクが本当に高くなるということは十分に考えられる
理想的には、母親の年齢に関する予測は、出産順位や赤ん坊の質などの関連変数を考慮に入れて検証するべきだが、今の所、それができるようなデータはない
私たちが最も強く予測できるのは、年齢の高い母親ほど、健康な第一子を殺す可能性が低くなるだろうということ
子殺しと母親の結婚状況
カナダの子殺しをする母親は、実際、確率的な期待値以上に未婚であることが多い
1977年から1983年の間にカナダで生まれた200万人の赤ん坊のうち、未婚の母親が産んだ子はたった12%でしかなかったが、警察に知られた、母親による子殺し64例では、未婚の母親によるものが半分以上を占めている(Daly & Wilson, 1987b) 子殺しする母親は比較的若くて未婚であることが多いという傾向が、本当にはっきりした特徴であるかどうか
年齢自体は直接関係なく、結婚しているかどうかなどといった他の変数が年齢と相関していると懐疑的に見ることもできる
子殺しする犯人の中に10代が多いのは、若いからそうなるのではなく、未婚の母の中に10代が多いからではないか
未婚の母親、既婚の母親双方のカテゴリーにおいては、子殺しのリスクが年齢と特別に相関していない
しかし、このフランスのデータの解釈には注意を要する
有罪となり刑務所に送られた母親のみを対象としたデータ
カナダのデータを見ると、母親の年齢と結婚状況という二つの要因の双方が、理論的な予測から考えられるとおりに、別々に子殺しのリスクに影響を与えていることがわかる
既婚の女性と未婚の女性を分けて考えると、どちらの集団でも、子殺しの確率は年齢とともに減少している
母親の年齢区分ごとに見ると、未婚の母親は同年齢の既婚の母親よりも、子殺しする確率が高い
イギリスにおける子殺しの簡単な歴史
英語国の全歴史を通して、他の世界と同様、貧しくて未婚の母親が、望まない赤ん坊を殺してきたのは確か
子殺しがどれほどであるかは、時代とともに大きく変動するようだ
中世イギリスにおける子殺しに関する情報は、殺人全体について検死や裁判の記録が大量に残されているにもかかわらず、少ない
歴史家のバーバラ・ハナウォルト(1979)は、1300年から1348年にかけてのノーフォーク、ノースハンプトンシャー、ヨークシャーで2933件の殺人が記録されているにもかかわらず、そのうちに子殺しは1件しかないと述べている 疑いもなく、子殺しは、このような記録から類推されるよりもずっと頻繁に起こっていたに違いないが、官吏からはたいてい無視されていたのだ
理由の一つは、子殺しでは、事件を追求するよう法的権力に訴えかけるような、権利を侵犯された側というものが存在しない
ほとんどの法的システムでは、殺人事件の原告は被害者の親類であり、加害者またはその親類に対して、自分たちの親類が失われたことの補償を求める権利を有していた
私達自身の法的システムの一部は、自分の子孫を生かすも殺すも父親の権利(potestas patriae)として父親の自由であるという、ローマ法に由来している
母親による子殺しは、父親の意志に反して行われたときにのみ犯罪を構成し、そのときでも、父親の権利は妻に対しても及ぶので、裁くのは父親であって国家ではない(たとえば、Jolowicz, 1932) イギリスにおいて、最終的に嬰児殺しに関する法律制定を導いたのは、これらの、殺されなかった私生児たちが与える経済的負担(英国議会文書, 1871) 1576年に制定された救貧法は、私生児を生んで地域の慈善に委ねたものに対して、教区の持てるものを「だましとり」「真の貧乏人」に与えるべきものを奪ったと言う理由で罰則を課した 未婚の母親は、父親は誰なのかについて尋問を受けるようになり、養育費を払うように命じられた父親から虐待や拒絶
このような状況は妊娠を隠して赤ん坊が産まれると同時に殺してしまうのを勧めているようなものであり、子殺しはどんどん広まった
赤ん坊が生きていたのか死産だったのか知る術がないため、母親がわかったとしても、犯罪を立証することにはならなかった
公的機関は、子殺しよりも不義の妊娠の方を厳しく取り締まろうとしたようだ
出産の隠蔽を死に値する犯罪としている
それからの200年間に、子殺しした母親の死刑というのはほとんどゼロにまで減ったが、それは有罪とするのを躊躇する風潮が高まったから
産業革命が起こると、多くの若者たちが家族と隔離されて、家庭内使用人や奉公人として暮らすようになったので、子殺しの動機はますます増えていった
ベールマー(1979)によると、19世紀後期の全女性人口のうち11%が家庭内使用人として働いており、未婚の母親の78%が彼女らだった 出産の隠蔽の訴訟は1860年代には年間200件以上あったが、1880年代には年間100件以下に減少
しかし、赤ん坊の不審死はずっと続いている
社会福祉、避妊具、合法で安全な中絶といった改良で、未婚の母親を取り巻く絶望的な社会状況がだんだんよくなるにつれ、子殺しも一貫して減り続けた
それでも「授乳性精神病」という項目はずっと精神科の辞書にのりつづけていた 現代の医者でさえ、出産後抑鬱を単純に内分泌上の問題と考える傾向がある 英国における子殺しの歴史から何かしら学ぶものがあるとすれば、絶望的な行為というものは、基本的には絶望的な状況の産物ということ
母子の「絆」について
母子の絆の本質については、長らく論争の的になっている
このような変化が経験と相互作用し、「母親としての反応の強さ」にどのような影響を与えるのかについては、おもにラットを対象に、多くの研究がなされてきた ヤギのような他の哺乳類の研究者の中には、母親が自分自身の子に対しては愛情を見せるのに、他の子どもには敵意を見せるという区別におおいに感銘を受け、一般的な母性などという動機づけの状態などないのではないかと考えている 多くの研究者(ほとんどは男性)が、このような動物による研究結果は、私たち人間に関してどういう意味があるのかを考えてきた
フェミニストたちは、このような考察を性差別主義のプロパガンダと解釈
この分野は非常に政治的になってしまったので、今では子育てに関してはまったく平等な機能を持っていると考えるのが「進歩的」となってきており、親であることに関しても、どちらの性においても特別な心理などは何もないということになってきている
こう考えることによって、ホモ・サピエンスの母性愛の理解は何も進んでいない
クラウスとケンネル(1976)は、赤ん坊を母親からたびたび取り上げて、授乳の時間にほんの短い時間しか接触を許さないでいるような、現代の産科病棟で普通に行われているやり方は、自然の母子の絆の発達を阻害し、退院したあとも長く尾を引くような影響を与える述べた
母親たちをランダムに二集団にわけ、産科病棟にいれば、普通に行われるような目に合う「病院スケジュールグループ」と、母親が退院する前の数日間に、それよりも数時間は多く赤ん坊と接触するような「大量接触グループ」とのどちらかを割り当てた
初期の頃の接触の重大な結果を示していると見られていたよく引用される研究には、方法論的な誤りがあると指摘された
行動の特定の測定結果は研究ごとにまちまち
わずかな有意な影響を見つけるために、多くの種類の測定が使われていた
通常の科学研究の規則から言えば、何の証拠でもないのだが
少なくともこの仮説は、あっさり捨ててしまうよりは、もっとよく調べてみる価値がある
接触を増やしたことの単なる散発的な影響だといってみても一貫した傾向は説明できない
方法論的に間違ったものもあっただろうが、そうでないものも確かにある
子どもの虐待のデータ量は多くないが、それでも、初期の頃の接触があると改善が起こることははっきりしている
淘汰思考からは、現在手に入る証拠と完全に合致する、新たな中間的な母子の絆の見方を得ることができる
母子の絆は、時間経過とともに変化する、少なくとも三つのプロセスによってできあがるようで、状況要因と、母子関係の様相との双方から影響を受けるらしい
最初のプロセスとして考えられるのは、出産直後に起こる、赤ん坊の質と元状況の質とに対する「評価の過程」
これまで見てきたように、出産直後の母親は必ずしも子供を育てたいとは思っていないし、そうだとしたら、その方がおかしなことだ
何人かの母親が感じる感情的平板さ、「無関心」は、そのような評価プロセスを表しているのだろう
第二の絆形成は「子どもに対して個人的な愛情を確立する仮定」
たとえ初めは無関心であったとしても、一週間ほどの間に、たいていの母親は、自分の子はすばらしくかわいいという感情が出てくると報告している
血縁関係のない赤ん坊に母親のエネルギーをたからられることがないようにする時期にあたる
母親は出産後1,2日で、自分の子どもの声や匂いなどの特徴をすばやく識別するようだ
母親の中には、自分の赤ん坊の糞は非の打ち所がなくきれいだと感じるが、他の赤ん坊の糞には吐き気をもよおす者もある
このような差別的な反応は非常に強力でおのずと出てくるものであり、以下に見るように、親代わりになった人間に、この純粋な親の愛着を感情的に真似ることは不可能
第三のもっとも長く続く絆形成過程は、その後数年にわたって「母親の愛情が徐々に深まっていく過程」
子どもが大きくなるにつれて、繁殖価が増加する(そして母親自身の繁殖価が同時に下がっていく)ことを考えれば当然であろう あとでみるように、子どもが大きくなるほど、どんな苦労があっても子どもを捨てたり傷つけたりしないようになる
障害児が生まれたとき
カナダ統計局のデータからは、現代の西欧社会で障害児が子殺しの犠牲になりやすいのかどうかを調べることはできない
精神遅滞の子が親の虐待を受ける率が非常に高いことは繰り返し示されているが、子どもが示す兆候は、それがもとで虐待されたのではなくて、虐待の結果であるかもしれない 多くの研究が、このような先天性の問題を抱えた子どもたちは、集団全体の比率で考えたときに期待される数字がから2倍から10倍の頻度で、強い虐待を受けていることを示している
1976年のアメリカ合衆国統計によると、アメリカの国家施設には、もう家族が訪ねてこなくなった障害児が1万6000人いた
そして、さらに3万人の子(22%)は家族の訪ねてくる回数が1年に1回以下だった
障害児に対する親の愛着の現象の一部は自然淘汰の結果かもしれないが、はっきりとした異常のしるしがあれば、必ず親の愛着が減るということにはならない 健康なヒトの赤ん坊は視線を合わせる、母親の声だけに反応するなどといった社会的反応性を早くも示すようになる
母親からの評価過程で母親からのコミットメントをとりつけようとする特別な試みであるのかもしれない
状況が不安定で、母親が少しでもアンビバレントであり、赤ん坊の反応が悪ければ、母親の意志は子どもを捨てる方に傾くかもしれない
私たちの社会では、障害のある赤ん坊は母親から取り上げられ、治療後何週間、何ヶ月もたってから家に戻される
そうした子の母親の愛着がうまく育たないのは、その障害自体のためではなく、出産後に隔離された影響かもしれない
それはともかく、重度の障害を持った子どもを見ると、親はすぐに非常なショックを受けるので、歴史的な状況では、すぐに捨てられたことは間違いない
障害児を「救う」ような医学的進歩がもたらしている倫理的問題についての代表的な議論についてはWeir, 1984 子が親の手にかかって、殺される危険性の変化
互いに尊重する心理メカニズムが自然淘汰によって作られたのならば、AのBに対する愛情は、Aの適応度に対するBの貢献の期待値に正比例すると考えられるだろう 親子の関係では、親の適応度に対する子の貢献の期待値は、子ども自身の適応度の期待値または「繁殖価」とほとんど比例している 「子どもにだけ向けられた親の愛情」には変異があるだろうし、その変異は、子どもの繁殖価に影響を与えるもので、親がそれを評価できるようなどんな変数にも影響されると考えられる なにごともなければ、個人の繁殖価は出生とともに徐々に上昇し、少なくとも思春期までは上昇し続ける
成熟するまで生き残るという保証がないから
現代の西欧では、乳幼児の死亡率が大幅に減少したため、人生の初期での繁殖家の上昇はかなり抑えられるようになったが、生活史の上での死亡率と繁殖率が、ヒトの歴史を通じてそうであったような状態では、思春期直前までに繁殖価が上昇するのは普通のことであった
進化心理学では、親は、子の年齢が上がるとともに子の評価を高めるだろうと予測される
基本的な実験状況の一つは、自分の巣の中にいる無力な子を、親がどれほど自分の命をかけて守る気があるかを測るというもの
このような研究の多くは鳥でなされており、典型的な結果は、卵やヒナの齢が進み、成熟に近づくほどに、親は、自分と自分の子のいのちを両方とも危険にさらすような捕食者に対して、逃げるよりは攻撃をしかけるようになる
ヒトの両親が年上の子を「好む」というのは、末っ子を甘やかしたり助けたりしているので、一見ありえないことのように思われる
核家族のメンバー同士は遺伝的に同一ではないので、兄弟姉妹間に競争があるのは当たり前
もしも親の動機づけが、親自身の適応度を促進させるものであるならば、親は、どれかの子の利益が完全に突出することは避けるように振る舞うはず
「2人のうちどちらか」と強制されたときには、上の子の方を選ぶとしても、典型的には、親が兄弟姉妹間に平等をもたらすので、普通は下の子、競争に弱い子の方を助けることになるだろう
しかし、親が子を差別的に評価するのがはっきりしてくるのは、この「どちらかを犠牲にするとしたら、どちらを選びますか?」という状況
第3章 嬰児殺しの民族学的記録で、出産間隔が短すぎたときや子沢山のときに殺されるのは、いつも新生児である11の社会 親にとっての子どもの価値が増加するにつれて、親と子の対立において親が危険な方策をとることの抑止がかかっていくと予測されるかもしれない
親に寄る子殺し、とくに乳幼児期を過ぎた子に対する子殺しが、親の愛情が一時的、瞬間的に消滅した結果であるとするならば、子どもに対する親の愛情の強さが子どもごとに異なることが、そのような愛情の消滅に影響を与えていると考えられる(Daly & Wilson, 1987b) カナダの記録を見ると、予測と一致して、もっとも顕著な差は、一歳未満とそれ以上の子との間にある
予測される理由
自然状態で思春期前の繁殖価が上昇するのが、一歳未満であること
親が世話をしようと思うかどうかが、子供の質や母親の状況の評価を安定したものだとすれば、見込みのない繁殖行動はなるべく早く中止し、そのうち放棄せねばならなくなるような仕事にかまけるのを避ける評価メカニズムがあるはず
非血縁者は親と同様の尺度で子どもの「価値」を測るとは考えられないが、事実、この分布は非血縁者による子どもの殺人リスク分布とは非常に異なっっている
もちろん、子供が大きくなるほど、非血縁者と出会うことが多くなると言う事実を反映している
それでも、1歳未満の乳児と一歳児だけをみても、この二つのグラフはあまりに異なる
親に寄る殺しが少なくなるのは単に子の自己防衛能力が高まっていくからだと論じることもできるし、ある程度はそうであるはずだ
それにもかかわらず、第8章 男どうしの対立の論理で論じるように、殺人被害者全体で見るとその率は思春期に急増し、殺人の被害者になる確率は、暴力的な対立でもっとも力の強い性・年齢層でもっとも高い 10代の若者はたくさんの葛藤を抱えた存在であり、非血縁者が彼らを殺す率は思春期以降で急増する 10代の子と親との間で起こる、思春期前の対立とは比べ物にならないほどの明らかで爆発的な対立を考慮すれば、親による子殺しが一貫して減り続けてほとんどゼロにまで下がるということは、ますます驚くべき特徴と言える
大きくなった子を殺す母親
進化心理学的見地からは、母親が乳幼児を過ぎた子を殺す非常にまれな例もよく調べる価値がある
子供に対する個人的な愛情は部分的には母親の残存繁殖価によって変化し、この変数は子供との対立が起きた時に、どれほど暴力的にふるまうかの確率に影響を与えるだろう
嬰児殺しだけでなく、もっと年齢の高い子に対しても、母親が遅く産んだ子であるほど子殺しは減少すると考えられる
カナダのデータは、この予測を裏付けるもの
ただし、年齢の高い子に対しては、嬰児殺しのときよりは、母親の年齢による影響は少ない
嬰児殺しの場合: 平均出産年齢22.7歳
もっと大きい子の殺しの場合: 平均出産年齢24.5歳
この二集団の間の差は有意であるが、両者はともに、その時期のカナダ統計局による、全カナダ人女性の平均初産年齢である25.8歳よりも有意に低い
母親の結婚状況についても、似たような結果が得られた
1歳以上の子を殺した母親は、嬰児殺しの母親とカナダ全体の女性との間の中間
嬰児殺しの母親のうち未婚の者は51%であるが、1歳以上の子を殺した母親では34%
カナダ全体で未婚の母の割合は12%であり、両者ともそれよりずっと高い
まとめると、1歳以上の子に対する子殺しの理由は、嬰児殺しの理由と重なってはいるが、かなりの部分は異なる
大きくなった子を殺すときには、たいていの母親は鬱状態
1歳以上の子を殺した母親95人のうち15.8%が、その後自分も自殺している
この95人のうちの15人が1度に2人以上の子を殺しており、そのうちの33%が自殺している
それとは対照的に、嬰児殺しの母親88人のうちで自殺したものは2人に過ぎない
そして、このわずか2.3%という数字も、嬰児殺しに伴う自殺という意味では過大評価である可能性が高い
嬰児殺しは殺人のカテゴリーの中でも有意に警察に見つかりにくいものだから
自殺した嬰児殺しの母親2人の年齢(平均29.5歳)は、そうでない86人の平均年齢(22.5歳)よりも有意に高く、そのうちの1人は、新生児のほかに上の3人も同時に殺している
嬰児殺しは、おもに自分が生きていたい若い女性が、現在の子を育ててはやっていけないと思った時の最後の手段であるが、もっと年上の子を殺す女性は、しばしば異なる抑鬱状態のもとにある
子殺しをするのは愛情からだということを示す遺書を残していくことがある
カナダのデータでも母親による嬰児殺しの35%には、それを捜査した警察は、「精神病または精神遅滞」というカテゴリーをあてはめているが、もっと年上の子殺しでは、その数字は58%
これ以外にも、非常にまれにしか起こらず、淘汰的に考えても常識的に考えても、行為者の利益に反するような類の行為は、多くの場合に何らかの精神的異常に帰されるようだ
「精神異常」と呼ばれる状態も、進化理論で解釈してみる必要がある
私たちは、ヒトが普通に持っている包括適応度利益の認知ができず、それを追求しようともしない人々を精神異常とみなす
子を殺す父親
男性の繁殖価は、成人に達した後、女性のそれよりも少し遅くになって最高値に達し、年をとってからはずっとおだやかに減少していく
母親の年齢による傾向と似たような傾向を示すが、カーブが穏やかだろうと予測できる
残念なことに、男性の齢別繁殖率の正確なデータがない
嬰児殺しを行った38人の男性の平均は、26.3歳
カナダの既婚カップルの子は、その多くにおいて、父親は母親よりも約4歳年上
この時期におけるカナダのは母親の平均初産年齢は、未婚既婚を含めて25.8歳なので、嬰児殺しをした父親は比較的年齢が若いと言える
嬰児殺しの父親の年齢は、もっと年上の子を殺した父親の年齢(被害者出生のときの平均年齢, 29.2歳)よりも有意に若い
父親も母親と同様に、子の年齢が進むほどに子殺しをしなくなる
しかし、ここでもその効果は弱い
「父親」というのは名称
父性の不確実性
父性を疑うもととなるような情報はいつ手に入るかはわからず、証拠は、普通は、子どもが小さいときよりも大きくなってからの方が明らかだろう
母親よりも父親による子殺しの危険性が長引く一因かもしれない
子殺しをした父親が自殺する確率は、母親におけるのと同様の変数と関連している
母親の場合と同様、父親でも、子殺しのあとで自殺する率は、一歳未満の子を殺した父親(38人中の10.5%)でよりも、1歳以上の子を殺した父親(101人中の43.6%)での方が有意に高い
母親での場合と同様、嬰児殺しをした父親で自殺した父親(平均30.5歳)は、そうでない父親(平均25.8歳)よりも有意に年齢が高い
子殺しをして自殺した父親が、その子の生まれた時の年齢(平均31.1歳, N=71)は、そうでない父親がその子の生まれたときの年齢(平均27.5歳、N=67)よりも有意に高い
1歳以上の子を殺した父親は、1歳未満の嬰児を殺した父親よりも、精神異常と判定される率が高い(20.8% vs. 15.8%)
しかしながら、母親と父親のパターンが全く同じわけではない
子殺しを、1歳から17歳までの子に対するものと、18歳以上の子に対するものとにわける
母親は、成人した子を殺したあとの方(4人の母親の100%)が、未成年の子を殺した後よりも(91人の母親の11%)ずっと多く自殺する
これは、嬰児殺しとそれ以上の年齢の子殺しとの間でみた対照と同じ傾向
しかし、父親では、成人した子どもを殺したあとの方(21人の父親の19%)が、未成年の子を殺した父親(80人の父親の50%)よりも自殺しない
この違いは、成人した子どもを殺した父親が、22人中20人息子を殺しており、娘を殺した父親は2人しかいないことと関係があるだろう
この父親たちはおもに息子を殺したが、母親に殺された成人した子ども4人のうちの3人までが娘だった(フィッシャーの正確確率検定では$ p<.014) 嬰児殺し、未成年の子殺しでは、そのような性差は全く見いだされていない
母親が殺した嬰児の51%が男児、父親が殺した嬰児の55%が男児
母親が殺した1歳以上で未成年の子の55%が男の子、父親の場合は54%が男の子
成熟した子と親との間の暴力的な対立は、彼らただんだん仲間同士のようになって直接の競争相手になるので、同性間のバイアスがかかるようになるのかもしれない
子殺しをする父親と母親のもっとも大きな違いは一家皆殺し
母親が家族全員を殺してしまうような例は、ほとんど聞いたことがない
一家皆殺しの記録は1961年まで遡ることができるが、23年間にカナダの男性が、妻および2人以上の子どもを殺した事件は61件あるが、母親がそのような挙に及んだ例は一つもない
母親の中には、複数の子を殺すものもある
他の女性は別の理由で夫を殺す
しかし、一家皆殺しは、そのあとで自殺することが多いが、それはともかく、男性に特異的な犯罪である
綿入s炊いてゃ、一家皆殺しの心理は、女性と女性の繁殖能力に対する男性の所有欲という点から解釈できると考えているが、それは夫と妻の間の暴力に焦点を絞った、第9章 夫婦間の殺しで扱うことにする 育ての親
進化的視点から導かれる予測は、育ての親は、一般的に、実の親よりも子を気づかうことが少なく、その結果、本当の親ではない人間に育てられている子は、より搾取されたり危険な目にあったりすることが多いということ
親による投資は貴重な資源であり、親の感情が自然淘汰で形成されてきたならば、それを非血縁者に対して無駄遣いしないようにできているはず
2人の人間の間の関係のほとんどにおいて、両者は、互恵性を注意深くモニターしているものだ
相手がつねに与えるよりも多くを得ていると感じるならば、その不平等はすぐに搾取と感じられて怒りが生じる
親による利他行動は、利益の流れの方向が長期にわたって一方的で蓄積されるものであり、しかもそれに不満が伴わないという点で異なり、事実、特別なものだ 適応度こそが究極の「自己利益」であり、もっと身近に感じられる自己の充足の認知は名ばかりのものに過ぎない 育ての親は、実の親よりも、親であることのコストに対して寛容にさせるような感情的報酬の経験を感じにくい
オハイオ州クリーブランドで行われた育ての親に対するインタビュー調査において、ルイーズ・ドーバーマン(1975)は、育ての父親のうち53%、育ての母親のうちの25%しか、子供に対して「親の感情」を持つことが出来ず、そらに少ない数の育ての親しか本当の「愛情」を感じることができないことを見出した これは主に中産階級の、特に問題のない家庭を対象になされた調査
トリニダッドの村人を対象にした野外観察研究で、マーク・フリン(1988)は、育ての父親は、実の父親よりも子供と接触する機会が少なく、その関係は、実の親子関係におけるよりも攻撃的であることが多く、子は、実の子よりも早く親の家を離れる傾向があることを見出した。 実際、専門家の多くは、義理の関係には必然的に葛藤がつきまとい、対立している双方にとってもっとも有意義な忠告は、各家族を構成しようという理想を捨てることだと結論している
だからといって、親の愛情の心理が(ほとんど完全に)花開くことはありえない、と言っているわけではない
人工的な親子関係がうまくいくかどうかを予測するにあたって、一つの重要な要素は、育ての親が最初からどれほど本当の親の愛情を持ちたいと思っていたかの度合いにあるに違いない
ここに、義理の関係と養子関係とを区別するべき重要な理由がある
義理の親や生物的な血縁者による養子とは違って、血縁関係にない「他人」であるカップルが行う養子は、たいていは、子供がなくて、自然の家族に似たものを持ちたいという強力な動機づけをもっているカップルのすることであり、養子の斡旋機関によって注意深い査定を受けている
養子を取るカップルは、完全に合意に達しているわけではないかもしれないが、少なくともカップルの片方適応度の上昇のために他方の努力を搾取するということはありえない
養子をとるカップルは、一般的な親よりもずっと裕福なので、子殺しや虐待の大きな理由の一つである貧困ということはここでは問題にならない
もしも養子縁組がうまくいかないことがわかったり、夫婦が離婚したりするときには、子供を返すことができる
これらすべての理由から、養子にとられた子供たちが、とくに高い確率で虐待を受けると予測させるものは特にないと言える
しかし、養父母に自分たちの子どもが生まれたあとには、虐待を受けることがある
カウンセリングの専門家の中には、子どものイない夫婦が養子をとるのは、夫婦の不妊が完全に証明されたあとにするべきだと考える人もある(例えば、Kraus, 1978) 義理の親と住んでいる子どもたちの危険性
義理の親に悪い性格付けを与えるのは、世界中の文化で見られる
stepmotherは「正当な世話や注意を怠る者」という意味がある
悪い継母が義理の娘を殺すように命じる(アイルランド神話)
悪い継母が、商人の夫の留守中に義理の娘を酷使して殺す(インド)
スティス・トンプソン(1955)の「民間伝承のモチーフ索引」は、便宜上、義理の父親の話を二つのカテゴリーにまとめている 残酷な継父の話
欲情に満ちた継父の話
シンデレラの話がどこにでも見られること(例えば, Cox, 1982を参照)は、確かに人間社会で繰り返し起こっている、ある種の基本的な緊張関係を反映しているに違いない チコピアやヤノマモの夫たちが、新しく結婚した妻に、前の子どもを殺すように命じることはすでに見た通り そうしないとすれば、子どもを母方の血縁者で更年期を過ぎた女性のもとに残していくか、未亡人と子どもの双方が、死んだ夫の兄弟または近縁者によって相続されると言う解決法がある
そのような取り決めがないときには、子どもたちは、義理の子として、その子の世話をすることに特別の利益を何も持っていない非血縁者の手にゆだねることになる
社会科学者たちはこのシナリオを逆転させて、義理の両親は残酷だという神話、および子どもが持つ恐怖心がそうさせているとした
社会科学者たちは、義理の親達が悪くステレオタイプ化されることについての事実的根拠を頑なに無視し続けてきた
現在の北アメリカにおいて、義理の親と住んでいる子どもは、虐待の犠牲者として報告される割合が確かに高い
非常に大きな違いを認める前に、いくつかの要因を考慮せねばらない
子どもの虐待も家族の崩壊も、両方とも貧困と強く結びついているので、貧困によって引き起こされた偶然の結果かもしれない
貧困は片親しかいない家庭と相関しているが、ここで取り上げているような、親が二人いる家庭では、義理の親と住んでいる子どもの割合は、カナダでもアメリカ合衆国でも社会経済的クラスを通じてほぼ同じ(Wilson & Daly, 1987) 北アメリカにおいては義理の親と貧困の間に有意な関連性は存在しない
義理の親(実の親の婚姻および内縁関係の配偶者)であることだけが、これまでに同定された子どもの虐待の要因の中で、最も重要な危険要因
虐待を見つけたり、報告したりすること自体に、義理の親に対するバイアスがかかっているかもしれない
そのようなバイアスは確かに存在し、それがどれほどの強さのものであるのかは推定できないが、それだけでこの事実が説明されることはないだろう
虐待の度合いが増加し、誰の目にも明らかなものになり、死に至るような虐待の例になるほど、そういうバイアスは少なくなるに違いない
その結果として、そういうケースでは、義理の親に虐待者が多いという事態も少なくなるはず
しかし、実際には全く逆の傾向が見られる
1976年にアメリカ人身保護協会が記録した8万7789人の被害者の内、15%が義理の親と暮らしていた
このうち3分の1弱が、事故で出来たのではない明らかな傷を負っていたが、その集団だけで見ると、義理の親と住んでいる子どもの割合は25%に増加する
さらに279件の致死例では通報のバイアスが最も少ないと考えられるばかりでなく、彼らの平均年齢が非常に若いので(中央地、3.6歳)、この年齢で義理の親と暮らしている人口はそもそも少ないはずだが、この中で義理の親と暮らしている子どもの割合は43%にまで上る
通報バイアスがあるにせよ、死に至る虐待の危険性は、義理の親の存在によって非常に多く上昇すると結論できる
危険性の上昇はどれくらいか
アメリカ合衆国とカナダおよびその他の国の人口統計局は、義理の親と実の親とを区別して記録しようとしたことがないので、それぞれの年齢の子どもが、どのような家族のもとに暮らしているのかに関する公的な統計は一切存在しない
アメリカで、虐待の結果殺された子どもの43%が義理の家族と住んでいたということは、偶然から予測されるよりもずっと高い割合に違いないが、期待値がいくつであるのかは、他の目的でなされた調査から推定できるのみ
1976年のアメリカの子どものランダム・サンプルで、虐待によって殺された279人の子どもに対応するような年齢分布では、手に入る国勢調査資料の中で最良のもの(Bachrach, 1983)によると、1%かそれ以下の子どもしか、義理の家族と住んではいない したがって、1976年に1人か2人かの義理の親と住んでいた子どもは、実の親とのみ暮らしている子どもの、およそ100倍も致死的な虐待を受ける危険性が高いことになる(Kaplun & Reich, 1976も参照) カナダの結果も同様
1983年のハミルトンでは、義理の親と一緒に住んでいる就学前の子は1%以下でしかないので、両親とも実の親である場合に比べて40倍もの虐待の危険性があることを物語っている
アメリカと同様、義理の親の割合は、死に至らなかった虐待よりも、致死的虐待の方が顕著に高い
1974年から1983年の間に、1歳から4歳までの147人のカナダ人の子どもが親の家で殺された
そのうち37人(25.2%)が義理の親によって殺されており、5人(3.4%)が血縁関係にない義父母に殺されている
1984年にカナダ統計局は、カナダの労働人口(18歳から65歳まで)のうちの1万6103人のランダム・サンプルについて、「家族史調査」を行った
この調査は(Burch, 1985)、北アメリカの子どもたちがどのような家族構成のもとで暮らしているのかに関する、今持って手に入る最良の資料 例えばこの調査から、1984年に1歳から4歳であった2852人のカナダの子どものうち0.4%が、義理の親と住んでいることがわかる
この調査は、私たちの10年間の殺人に関する調査の最後の年の翌年に行われている
離婚と再婚の率が、この10年間に急増したので、それにつれて義理の親の割合も増したことだろう
そこで、1984年の調査からの推定値は、殺人のデータがとられた時期の義理の親の割合よりも高いと考えられる
カナダという集団全体に関する1984年の調査資料から義理の親と実の親による、齢別殺人危険率を計算することができる
その差は、致死的でない虐待の場合よりもずっと大きい
殺人調査時期より後なので、この差は明らかに過小評価されて表されていることにもう一度注意してほしい
もっとも幼い2歳以下の集団では、義理の親に殺される危険は、実の親の70倍にも達している
後者は実の母親による嬰児殺しをすべて含んでいるにもかかわらず、である
イギリスでも同じことが言える
精神法医学者のP・D・スコット(1973b)は、父親または義理の父親が「絶望的になって、または激怒の結果」「赤ん坊を虐待して死に至らしめた」29件について報告している このうち15人(52%)が義理の父親であったが、それは、犠牲者の平均年齢が15ヶ月であることを考えると、非常に高い数字であると言える
このような家族と住む確率は直線的に増加するので、15ヶ月のイギリスの子どもが義理の家族と住んでいる割合は1%以下であろうと推定できる
義理の親と子どもの年齢
義理の家族の対立
義理の家族に関する一般向けの書物のほとんどは、対立が起こるのは、子供のほうが義理の親を嫌がるからで、その逆ではないと決めてかかっている
淘汰思考の視点からすれば、義理の親の方こそ、にせの親の役割を担わされることを嫌うはずであり、子どもが嫌がるのは、義理の親の方に真の親らしい感情がないことをちゃんと理解した上での反応であると考えられるだろう
この二つの代替仮説は暴力を引き起こす危険性に年齢がどう影響するかに関して、全く相反する予測を導く
もし新しい親を拒否するのが子供の方であるならば、義理の親に特有のどんな問題でも、それは思春期にもっとも強く現れるに違いない
最低限、そのようなことはもっとも小さい乳幼児にはないに違いない
もしも、問題は第一に義理の親の側の拒否にあるとするならば、虐待の危険性は、子どもがもっとも手がかかり、親の義務が最大である時期に高くなるに違いない
思春期ではなくて乳幼児期であると予測される
事実は後者の仮説を支持している
実の親の家庭に対して、義理の親の家庭が子どもを虐待する危険性の度合いは、もっとも小さい乳幼児に対してがもっとも高く、子どもの年齢が上昇するとともに直線的に減少している
殺人のデータは、虐待のデータとほぼ同じ
赤ん坊が殺されたり虐待されたりする危険は、義理の親の存在によって大きく上昇する
義理の親といった場合、それはほとんど例外なく義理の父親である
乳幼児を引き取るのはたいてい母親であって、父親ではないから
実の母親は、暴力やほったらかしに間接的に関与したか、少なくとも見てみぬふりをするか
民俗資料の例とまさに同様に、赤ん坊は新しい関係にとっての足手まといであるので、母親はどちらかに決めねばならない
子どもが大きくなるほど、実の親は子を捨てなくなるので、なんらかの妥協を見つけねばならない
思春期の子と義理の親との対立も確かに激しいものであるが、どちらの側も、若者はやがて家を出ていくという見通しがある
社会科学で現在のところ優勢な、親の行動に関する見方は、ここで展開しているものとはずいぶん異なる
親というものは、普通、「役割」であると考えられている
この比喩(ときには「理論」)は、人が、親の関係から他の社会的関係に移行するときに生じる、あからさまな行動的変化をよく捉えているし、よき親になるためには社会的な学習が必要だということに注意を向けるにも有効
しかし、この比喩は、それが誰にでも代替可能であるという感じを抱かせる点で誤解を招く
役割とは、その経験を積んだ有能な役者ならば誰もが演じることができるが、親と子の絆は個人的なものであり、意志によって形成できるものではない
実際、役割の概念は、親であることの動機づけと感情的側面をまったく完璧に無視している
義理の親に関する現在優勢な社会科学的見方も、実の親であることとほんの部分的に合致した「役割」というもの
私たちは、この節は、そこから導かれる予測に対して実証的な検証を行えば、それに耐えないだろうと思っているが、この説の支持者たちが実証を試みたことはない
この説から導かれる明らかな意味合い
父親が何をするべきかについては社会的な意見の一致があるが、義理の父親がなにをするべきかについては、ずっと少なくしか意見の一致がないということ
義理の親につきまとう困難さは、このことについてよく議論がなされ、「うまく定義されていない新しい役割」がもっとよく理解されるようになるにつれて、消えるだろうということ
ある種の役割は非常に簡単で「よく定義されている」にもかかわらず、ある種の役割は困難で「あいまい」であるのかについて、常識に基づく代替仮説がある
単純に前者の役割はわれわれの自然な性向に合致しているのに対して、後者の役割はそれに反するから、というもの
葛藤が多いのは、彼らがなにをしたらよいのかよくわからないからではなく、彼らの問題は、自分たちがやるべきと思われていること、つまり、通常の感情的報酬を得ることなく、非常に大きな「親としての」努力を投資するということを、自分たちがやりたくないというところにある
社会がその役割を決めかねているところにあるのではなく、義理の家族が本質的に抱えている利害の対立にある